歴史民俗資料館だより【2024(令和6)年度】   

2024年 6月号

軽井沢における水道事業~「上水道創設編」

 前回「5月号」では別荘地開発における水道事業と、そこで用いられた「木製水道管」について取りあげました。今回は、軽井沢町における水道創設について注目していきます。

 

 大正12(1923)年に町制施行し、町としてスタートしたばかりの軽井沢町において、水道事業は、大規模かつ特別な事業でした。その時のことは、『軽井澤町報』(4号、大正14年)が、「軽井沢町上水道布設 三部落とも近く実現。布設の暁には衛生火防共完備されん」と大きく伝えています。

 この事業の背景には、清潔で大量の水を供給することで衛生と火災への対策を強化したい、ねらいがありました。町は「他町村と違い夏季は各宮殿下を始め貴紳士多数来軽(らいけい)せらるるため特に衛生火防等の施設宜しきを要する」と避暑地特有の意義を示しました。

 くわえて、近接する小諸町(現小諸市)では大正13(1924)年に、他近隣町村に先駆けて水道が創設されています。先例があったことも、事業の推進を後押ししました。実際に「軽井沢町会が、一足先に水道事業を行っていた小諸町水道部を施設に訪れ、具体的な事業方針を立てた」とも記されています。小諸町の事業を参考にして、かかる費用と経営方法を考えていきました。

『軽井沢町水道設計書』

 水道創設に向けた設計書が、令和5年度の冬期期間中の資料整理のなかで発見されました。創設時の詳細な記録が残る貴重な地域資料です。この事業は、「西部沓掛方面には、芹ケ沢に水源を求め沓掛水道を布設し、東部には川越石の川越石川を水源として軽井沢水道を布設し、離山、旧軽井沢、新軽井沢、矢崎(矢ヶ崎)等に給水する設備とする」と記されています。創設時は、広大な軽井沢町のなかで別荘戸数の多い地域が優先されたことが分かります。この2つの水源から給水することが、当初の事業目標だったのです。

 なお、送水管はおもに鋳鉄管が用いられることとなりました。木製から鉄製へと水道管として使用する材質が変化したことも分かります。

 

歴史民俗資料館所蔵資料

資料整理番号 ID2323013

表題 軽井沢町水道設計書

   かるいざわまちすいどうせっけいしょ

寸法(cm) 24.0×16.7

制作年月日 大正14年(1925)

備考 飲料水試験成績書

 

軽井沢町図書館デジタルアーカイブ

資料ID mp100050

表題 『町報』4号

刊行 大正14年(1925年)10月20日

 

                                  (学芸員蒲原)

2024年 5月号

軽井沢における水道事業 -「木製水道管(もくせいすいどうかん)」編

 わたしたちの暮らしに欠かすことのできない水。清潔な水を安定して、各家庭・学校・病院・会社などに供給しようと、これまで様々な工夫が、先人たちによってなされてきました。軽井沢における水道事業の歴史について、当館所蔵の資料をもとにひも解いていきます。

  別荘開発のなかで行われた水道事業

 大正7年(1918年)、堤康次郎が千ヶ滝(せんがたき)の開発に着手し始めました。「千ヶ滝遊園地株式会社」を設立し、水道敷設工事、共同浴場の整備など本格的な別荘地開発をおこなっていきます。

 このとき、水道敷設工事に使われたのが「木製水道管」です。

「水道管は6尺(約1.8m)の松の丸太をくりぬいたものをつなぎ、道路の十字路ごとに直径6尺の桶を地面にうめて水をため、各別荘へは手桶(ておけ)・水汲桶にて運んだ」(町誌243頁)といわれています。

 

 蛇口をひねれば簡単に水が出るような、現代の画期的な水道とはもちろん異なりますが、木の中心をくり抜き、つなぎ合わせるという手の込んだ技術によって、水道敷設事業が進められたことが分かります。

 水道のほかにも道路や、バスの運行、電気、浴場など避暑生活を快適に送る条件が整っていきまます。このことは、それまで旧軽井沢周辺に分布していた別荘地が、町全体に広がっていくきっかけにもなりました。

 

 次号では、大正15年(1926年)の軽井沢町の施策による上水道敷設について取り上げ、水道事業にみる地域の歴史を追います。

 

 

 写真:2024年5月1日撮影 歴史民俗資料館蔵「木製水道菅」

(1)立てかけられているのは、中軽井沢北部で発見されたものと伝えられている。恐らく、先の千ヶ滝開発によるものかと思われる。

(2)横たわる太い木製水道管は、平成17年(2005年)に新軽井沢地区矢ヶ崎の地中1m20cmから発掘した。明治時代~大正時代のものと推定。

(学芸員 蒲原)

2024年 4月号 

開館(2024(令和6)年4月2日(火)~)のお知らせ

 当館は、昨年11月16日より冬期休館しておりましたが4月2日(火)から開館しております。休館日は毎週月曜日です。

 

 さて、当館の展示室に入ってすぐにある真正面の巨大パネルには「道は、時代を無言のうちに物語る…ひんがしの山道(古東山道)・東山道・中山道―」という言葉が掲げられています。当館は「道の文化史」を基本テーマに据えています。縄文時代から近代にいたるまでの道に注目しています。江戸時代の参勤交代や、旅人、行商人など移動する人びとを支えた地域に築かれた独自の文化を、実物資料をもとにさぐることができます。

 

   

    写真:2024年4月撮影「第1展示室入口」編集済

 

【歴史民俗資料館にある石仏】

 

 展示室に入ってすぐ目につくのは、左手に丸で囲んであります、石造の角柱「馬頭観音兼道標」と石仏「聖観音/持蓮観音」でしょう。ここに展示される以前は、道沿いにたたずみながら、人びとや馬、動物たちの歩みを見守ってきたと考えられます。これらは、本来ならば建立された場所にあるべきものたちですが、当館で展示されているのはなぜなのでしょうか。

 

       

       写真:2024年4月撮影「歴史民俗資料館に展示されている聖観音」    

 

 1体の仏像をもとに説明していきたいと思います。

 その背景は、1981(昭和56)年11月10日の『信濃毎日新聞』の「高原調」という小さな記事のコーナーに書いてありました。

 

「軽井沢町千ヶ滝の別荘の庭に、新聞紙に包んだ石仏が捨てられているのを管理人が見つけ9日に、町教委に届け出た。

 石仏は縦六十センチ横30センチ 上部とがった石に像が彫られている。帽子をかぶり、ほうきのようなものを背負った姿。腰には紐で縛ったような模様も。

 石仏には製造年月日などが刻まれている例が多いが、文字らしきものは一切無い。~(後略)」

 

 たくさんの石仏がこれまで様々な受難にあってきました。明治の初めの頃に行われた「廃仏毀釈」による破壊行動、戦後に頻発した盗難被害、開発工事や、自然災害などによる影響も深刻です。歴史民俗資料館では、そうした石仏を保護する場所としても機能してきました。

 

        

        写真:2024年4月撮影「聖観音の拓本」

 

 なお、当時の職員が拓本をとるなどして、石仏の出自を解明しようとしましたが、結局判明には至っていません。

 当館では、このほかに10基(体)ほどの石仏が保護、展示されています。石造文化財は、さまざまな人びとの願いが込められています。特に軽井沢町は、古東山道、東山道、中山道のほか入山峠、和見峠、碓氷峠などの峠をかかえていることから、石造文化財が数多く存在する地域です。当館で「道の文化史」について学んだのち、ぜひ散策しながら石造文化財を見つけてみてください。

(歴史民俗資料館 学芸員蒲原)

  

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